2020.07.09

「できること」と「わかること」

問題解決力を育てる

 今、学習の現場を混乱させている理由の一つに「できること」と「わかること」の区別が指導する側にもうひとつはっきりしていないところにあります。このことがはっきりすれば、これからの現場での対応の仕方がずいぶんと変わってくるのではないでしょうか。
 「できること」は、トレーニング(練習)によって可能になることです。つまり体で覚えるという意味です。スポーツなどはこのことがより具体的に現れます。しかし、学習となると、例えば漢字の百字練習の宿題などは、片一方の偏だけ百書いて、またあとで旁の部分を書くといった風に、文脈もない仕方だとその効果はゼロに等しいです。学習の場合、どうかしてスポーツのように効果があげられないのは、文脈のないトレーニングを強いられるからです。スポーツは自分の選択がある程度許されているから目的がはっきりするのです。ところが学校の科目学習となると選択の余地がない状況です。試験、受験などの目的を以てこれに耐えるもののみがその効果を引き出すことができます。

自己主張と表現力の違い

 

 一方、「わかること」は何度同じことを繰り返してもわかると言うところに中々つながらない現状があります。つまり、「できること」の延長線上に「わかること」はないのです。そのため、指導者は必死でわかるようになるために教え込もうとします。また、一方で何度でも同じことを練習させます。教え込みと反復トレーニングによって、子どもたちの多くはそこで学習が終わってしまっている現状があります。ただ、ここ数年そういったトレーニング重視の学習からの脱却を学習現場、指導者は模索しています。その背景には、今の日本社会では、急速に変化していく世界に半数以上の個人が対応しきれていない現状があるからです。なぜ、対応できないのでしょうか。日本の教育の現場は、およそ50年間、学歴主義から生み出された偏差値教育を国民すべてが容認し、それに向かうという状況を作りだしました。この偏差値教育を20代から60代の大人たちは子どもの時に徹底させられてきました。こういったことは、日本に限ったことではないと思いますが、これを徹底させ、経済大国になったのは日本ぐらいではないでしょうか。しかし、ここ数年、後進国とよばれる国々が経済スピードを加速化させ日本を超えていこうとしています。いや、もう超えられているのかもしれません。アメリカ、ヨーロッパは、そもそも教育に対する考え方が違います。教育機関そのものの入り口や出口は「個人の意思」が選択するという考え、思想が根付いているため、日本のように偏るということはありません。しかし、偏りがない分、平等、統一、協調などの意思を個々が選択することは良いも悪いも難しいといえます。

表現力を育てる

 ではいったい人はどこでわかるようになるのでしょうか。体験という言葉がありますが、この体験をいくら積み重ねても経験にはならないといわれます。経験とは自分が生きるということに組み込まれていくことです。自分が生きるということに組み込まれないものに関しては人はいずれ忘れ去ります。つまり体験は点でしかありません。これらの点が、自分が生きていくことの文脈に触れたときにはじめて線になる可能性が生まれるのです。
 しかし、それを組み入れる思考がなければいずれ消えていくことになります。この可能性ができるかどうかはいったい何ではかることができるのでしょうか。

子どもを育てる

 人は生きるということを考えるとき、自分の中に2種類の生を持っていることを知っています。それは、生活者として食べて寝て、喜怒哀楽の日々を送るということと、もう一つはそういう生を受容しながらも、社会でどのように生きていくのかという自分が自分の生き方を創るという能動的なものとです。「できること」というのは前者の範疇であり、「わかること」というのは後者の領域なのです。この後者の生き方を自分で創り出せるかどうかで「わかること」を必要とする人生を生きるかどうかになると私は思います。自分が常に自分の生き方を創っていくためには、自分の体験を経験化して行かねばなりません。それは自分の過去の歴史が現在を創り未来を創るのですから、その過去をどう考えるのかという振り返りなくしてはあり得ないのです。振り返ることによって経験化し、現在に活かし未来への道を創るということこそ「わかる」という意味なのです。このことからすると「わかる」ということはあとからくるものであり、経験になってはじめて理解することができます。この作業ができるのは、飛躍できる機会を与えられたときにはじめてやってきます。言い方を換えれば、生活者としての日々の中に自分を創り出す知を積み重ねることができるかどうかにかかっています。このことができたときはじめてわかるのです。

 

表現力を育てる

 私が子どもの時、体験の経験化など考えもしませんでした。しかし、体験の経験化が子どもの時にできていればという想いを過去を振り返ることによって、少しずつですが生き方に厚みがでているように自分自身感じることがあります。生きてる限り、失敗も成功も日々繰り返しの毎日です。その繰り返しを体験ではなく、経験化できたとき自分自身が飛躍できる機会を創出できる人間になれるのではないでしょうか。そのことによって、100%、子どもには伝わらなくても、1%でも体験の経験化が伝わるのではないでしょうか。(文/北岡)