2021.06.09

「考えることをどこまで教えられるか」 文/学林舎 北岡

☆「考えること」=技能と考えることから「自らの学びの文脈」への転換

学習現場を考える

 子どもたちは、少し難問にぶつかると口癖のようにいうのが、「先生、やり方を教えて」という言葉だ。佐伯胖(さえき・ゆたか)さんの書かれている「考えることの教育」によると、これは、「考えること」を一つの技術だという考え方が、生徒にも教師にもあることからくるという。つまり、「考えること」には一連の手続きがあって、その手続きを無駄なくうまく行えば、正答を得ることができるということである。従って、技能は訓練すれば上達するから、まず何度も繰り返して行うことによって「やり方」を覚えてしまう学習法をとってきたことにこの原因があると考えられる。それは同時に唯一の正答を求める手順でもあるのだ。だから1つの問題パターンのやり方を覚えるために同じようなパターンを繰り返し練習して習得する。従って、まったく新しいパターンもやり方を真似すればできるわけである。しかし、これでは永久に自分で新しい問題に挑戦することはできない。たとえ同じような事例に対してはより完璧に行えても。

 

 学習指導要領が改訂されグローバル化がすすんでいるように見えるが、日本の教育の主流は、寺子屋方式である。先生が手本を示し、子どもが真似るということを原点として行われてきた。実際、子どもは真似をしながら成長するのであるから、そのこと自体がとんでもない間違いだとはいえない。しかし、それなのになぜ新しいことに挑戦することなく、物真似だけに終わってしまう結果となったのであろうか。
 佐伯胖さんは、ここで「真似」には「結果真似」「原因真似」があるということをいわれている。「結果真似」はお手本の忠実な再現であり、「原因真似」はお手本のようなものをいろいろ生み出せるものであるという。「結果真似」では先生と同じ解答をする人間を作るだけである。このように「結果真似」は思考の固定化をするが、「原因真似」はいつも変化を求めることになる。つまり、わくにはまることを嫌うのだ。子どもはこの「原因真似」によって成長するのだと。「ごっこ」遊びを例に取ってみよう。自分の経験をその場の仲間や状況と重ね合わせて子どもなりの世界の「お母さん」ごっこが生まれてくる。

 このように、いくら「結果真似」をしようとしても何らかの形で「原因真似」をしなければその場の状況では成り立たないのである。つまり、真似るという技能の中には、結果の再現と原因の取り組みが表裏一体となっている。にもかかわらず、学習の過程で、技術的な習得としての「結果真似」だけで終わってしまうものと「原因真似」によって活動的な思考を生み出すものとの違いがでるのはなぜだろうか。
 両者の違いは、子どもたちの学習や課題解決のパフォーマンスにおける違いではなく、子どもたちの生活全体の中での意味づけにかかわるからである。つまり、子どもたちのそれぞれの生活全体の文脈の中で「物真似」による「学び」が行われているときにはじめて、それぞれの子どもたちの経験と重ね合わせられ、「いろいろなよく似たもの」が生まれ、さらには大人が想像もつかないまったく新しい活動的な思考が働くのである。
 ところが、本人の生活の文脈とはかけ離れ、いきなり特定の動作をたどらされる。つまり、本人の文脈の流れが何であるかは問題にされず、他人の要求次第で、その場でちゃんとした行動、「結果真似」だけをとらされる。子どもがそのように感じて物真似をしているときは、実は上の空で動作だけの真似を行っているのであり、原因、理由、根拠への配慮は全く働かない。たとえば、遊んでいるときに突然、母親に勉強しなさいといわれる。おそらくこのときの勉強はドリルを何ページしていても、その内容は身に付いていないはずである。とりあえず、「勉強の結果真似」(勉強のふり)をしているだけである。自ら進んで行う勉強であれば、その勉強の内容がいかに「結果真似」ともいえる漢字練習のようなものであっても、「原因真似」への転化つまり活動的な思考の働きが可能となる。

 

☆それではどうすれば、子どもに「学びの文脈」をつくることができるのか。

 

考える力-成長する思考力GTシリーズ
 いまどきの子どもたちの生活時間あるいは生活空間は、学校 → 学習塾(習い事なども含む) → 家庭とほぼ四六時中、教師や保護者に管理されている。コロナによって、多少状況は変化しているかもしれないが・・・。学校ではほぼ7時間~8時間、その間、40分~1時間ごとに異なった教科の授業が入れ替わり立ち替わり行われる。ここでは、子どもたち自身の文脈をもった「学び」はほとんど不可能に近い。塾においても、自分が「納得できる」という時間までは与えられていない。家庭にもどると母親は「宿題しなさい、勉強しなさい」としかいわない。これでは、まわりのみんなをとりあえず黙らせる「勉強するふり」をする以外にはない状態になっている。

 まず、どこかでこの「ふりをする学習モード」から「子ども自身の学びの文脈」へ転換することが必要だ。一つには子どもにとって「学びの場」として受け入れることの出来る空間を作ることが出来るか。もう一つは子どもたちが積極的に学習に向かうための関係の取り方が出来るかということにある。

 さらに学習内容に踏み込むと、子どもたちが自分の学習に「納得」しているかどうかが問われることになる。つまり、「納得」のない学習は、結局のところその場を繕うための「結果真似」に終わってしまうからだ。「納得」するための学びが、次の学びにつなぐ文脈をつくるのである。それは同時に「わかったふり」をさせない現場づくりにもつながってくる。その意味では、子どもたち自身の学習の「振り返り」は、現場においては重要な意味をもってくる。

 「考えることを教える」とは、実は「自らの学び」を子どもたちが作れる環境づくりや学ぶ方法を伝授していくことでもある。

 

 成長する思考力シリーズGT国語・算数を10級から1級までこなしている子どもたちの多くは、子どもたち自身が自らの学びを作りあげてきている。とくに10級から8級までは、比較的スムーズに進むが、多くの子どもたちは7級~6級に入ると突然難しくなったと感じるはずである。そこで投げ出すか、そこを乗り越えるかで本当の意味で自分の学びができるかを問われる。一度はくじけそうになるのを乗り越えた子どもたちは、「結果真似」から活動的な思考を働かせる「原因真似」へと変容し、「自らの学び」を創出し始めるのである。(文/学林舎 北岡)